夕暮れフェルマータ

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関ヶ原の戦い当時の関ヶ原の様子は?

当時の関ヶ原は、宿場町 + 農村だった。

 現在、公開中の映画「関ヶ原」で描かれている合戦の場面を見ると、だだっ広い原野で戦闘が行われたような印象を持ちますが、実際はどうだったのでしょうか。

 実は、関ヶ原の戦いがあった慶長五年(西暦1600年)の関ヶ原は、すでに、東山道(後の中山道)・伊勢街道・北国脇往還が合わさる宿場町を形成していました。

 街道沿いの家々は、間口が狭く、奥に長い間取りだったようですし、周囲には田畑が広がっていたことも分かっています(慶長年間に近い時期の検地帳等から推測)。

 現存する「関ヶ原合戦図屏風」を見ても、集落や田畑は描かれていないようなので、野戦が原野で行われるというイメージのルーツはかなり古いものと言わざるを得ません。

 もちろん、屏風絵を描く際に、不要な情報としてカットされたのでしょうが、一旦、そのように描かれてしまうと、それが既成事実となって、代々の日本人の脳裏に刻まれ続けることになりました。

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関ヶ原古戦場決戦地碑。石田三成が布陣した笹尾山のすぐ近くにあります。


 

地元の住民たちの動きは?

 前回の記事でも触れましたが、西軍は、松尾山城を整備したり、不破関近くに空堀等を伴う砦を築いたりして、東軍を迎え討つ準備をしていました。

 当然、地元の住民たちがその作業に駆り出されたことでしょう。関ヶ原の戦いが行われたのは旧暦の九月十五日。新暦では10月21日に当たります。ちょうど稲刈りの時期になりますが、実際はどうだったのでしょうか。

 実は、関ヶ原の戦いが終わった後、役人から、山中に逃げ込んだ住民たちに対し、早く山を降りて麦作するように、と通達した文書が残されています。

 関ヶ原の住民たちは戦乱を避けて、関ヶ原北方の山中に隠れていたようです。関ヶ原北方の山の先には山間の集落があり、岩手峠等を越えて人の行き来も見られました。

 実際、敗走した小西行長宇喜多秀家はこの山中に逃げ込んでいますし、お隣の旧伊吹町(現在は米原市)の住民たちも、この山域に避難していたことが『伊吹町史』に書かれています(「踊り場」と呼ばれる高台から、合戦の様子を望見していた、との話も伝わっています)。

 なお、「稲刈り」についてですが、上述した通達に「麦作をするように」とあるところを見ると、既に収穫は済んでいたものと思われます。

 

改めて、合戦の状況をシミュレートすると…

 石田三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ヶ原古戦場を一望の下に眺められます。当時の笹尾山は、関ヶ原の住民たちの里山でした。植林帯が広がる現代以上に、手入れの行き届いた農村風景が広がっていたのではないでしょうか。

 そんな狭いエリアに、何万もの兵どもが雪崩れ込んだ状況を想像すると、ちょっと気が遠くなります。恐らく、元の落ち着いた風景を取り戻すまで、長い月日を要したに違いありません。

 僕自身、この古戦場を歩きながら、自分が足軽として駆り出されていたら…と想像したこともあります。前線に押し出されたら、もう逃げられません。前方に待ち構える無数の敵兵、背後には何万人もの「味方」の壁があります。卑怯な真似をしたら、すぐバレてしまいます。誰かに討ち取られるまで、進み続けなければいけません。

 意気地なしと思われようと、素直に「戦争は嫌だな」と思います。

 

 それでは、今日はこの辺で擱筆させていただきます。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

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