夕暮れフェルマータ

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小林一茶を芭蕉・蕪村と比較してみた

芭蕉・蕪村・一茶の俳諧に対する姿勢の特徴

 前々回に引き続き、小林一茶について考えます。

 小林一茶は生涯に二万句以上の発句を遺しました。俳聖松尾芭蕉は約千句、与謝蕪村は約三千句と言われています。

 後付けの感は否めませんが、以下のように考えると妙に納得できませんか。

⒈ 芭蕉は風雅の道を追求し、常に最高水準の作品の完成を目指して推敲を重ねた。

⒉ 蕪村も風雅の道を求めたが、フィクションの世界とも融通無碍に行き来した。

⒊ 一茶は現実の生活における喜怒哀楽や自然の姿をそのまま率直に詠み続けた。

 この把握の仕方が乱暴に過ぎることは十分に承知しているつもりですが、芭蕉・蕪村・一茶の俳諧に対するこうした姿勢の違いが、結果として、遺された作品の数の差に現れているような気がします。

 

芭蕉の風雅 孤高の世界

 芭蕉は、現実の生活をそのまま詠むことはしませんでした。それはある意味で当然です。彼は風雅のために世間一般の「生活」を捨てたのですから。彼が詠もうとしたのは、風雅というフィルターを通してみた世界です。それは確かに素晴らしい世界でした。

 しかし、それほどの深い詩的真実が、そう簡単に手に入るとは思えません。だから、千句。但し、その内容は文句なく一級品なので、表現にも十分な配慮を要します。だから、推敲。こういうことなのではないでしょうか。

 

蕪村の風雅 自在なペルソナ

 蕪村も風雅に賭ける情熱では芭蕉に引けを取りませんが、彼は物語(フィクション)の主人公になることができました。王朝の貴族であったり、薮入りで実家に帰る少女であったり、自分ではない旅人であったり…。だから、作品数を三千句まで増やすことができました。

 

一茶の俗世 現実(リアル)な世界

 一茶はどうでしょう。彼だけが、等身大の自分を表現し続けました。視線を周囲の自然に向ける際にも、そのものズバリを見ています。その代わり、個々の事物の奥に秘められた普遍的な「真理」に興味を持つことはほとんどありませんでした。

 そのことは、次の二作品を比較すると、そのことがよく分かります。

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

 しづかさや湖水の底の雲の峰    一茶

 句の相貌は似ていますが、そこに湛えられている詩情は全く異なります。

 芭蕉の句は「(蝉の)声が岩にしみ入」るという、現実にはあり得ない表現によって、存在そのものの本質に迫ろうとしています。

 一方、一茶の句には、現実の世界(自然)を透徹した目で見切った清々しさがあります。

 この二句に優劣をつけるのは、ちょっと一茶に酷ですね。なんといっても、芭蕉の一句は、名吟中の名吟です。但し、この句はある漢詩の一節を下敷きにしています*1。だからと言って、この作品の価値が減ずることはありませんが、「蝉の声と林中の静けさ」という把握の仕方を芭蕉ひとりの手柄にするわけにも行きません。

 一茶の句は、一見不思議な表現ですが、実は見たままを詠んでいます。ただ、じっと対象を見つめ続けた結果生じた一種の錯覚が、この作品に「詩」をもたらしました。

 この句、僕は好きですね。芭蕉の作品とはまた別の意味で、 永遠性を感じます。難しいことは何もないのですが、この世界に「湖水」と「雲の峰」があるかぎり、不滅の風景だと思います。

 もちろん、一茶の発句は多様で、もしかしたら、雑多、あるいは玉石混合と言った方が良いくらいなのですが、視点を変えて改めて探してみれば、新たな秀句を発見できる可能性はまだまだあるのかも知れませんね。

 

 なかなか一茶の作品紹介にたどり着きませんが、今日はこの辺で。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

yuugurefermata.hateblo.jp

 

*1: 

王籍『入若邪溪』  王籍

艅艎何泛泛,空水共悠悠。
陰霞生遠岫,陽景逐回流。
蝉噪林逾静,烏鳴山更幽。
此地動歸念,長年悲倦游。

に、「蝉さわいで林いよいよ静かに」とある。