夕暮れフェルマータ

 人生のマジックアワーに振り返る好きな本とか自然とか…。

藤原定家・西行・与謝蕪村         和歌・俳諧における「無」の美について考える

 我が国に伝統的な美感

 和歌に限らず、言語芸術においては、実際にそこにないものを「ない」と表現することで文芸上の効果を狙うことがあります。

 これは、ファンタジーのような空想の産物を描く、という意味ではありません。なぜなら、当該作品の設定としては、それらのものは確かに「ある」からです。古来、多くの神話が絵画や彫刻のモチーフとして取り上げられているのも、同じ理由です。

 それでは、言語芸術に特徴的な「ない」表現とは、具体的にどういうことを言うのでしょうか。

 

完璧な詩的世界  藤原定家

 実はこれ、和歌においてはありきたりの表現技法で、むしろ、そこにどれだけの詩的真実を込められるか、の方が重要なくらいなのですが、例えば、藤原定家の有名な、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

 を読むと、一旦、花(桜)や紅葉の存在をイメージとして提示しながら、それを「なかりけり」と否定することで、二重どころか、三重の幻影を浮かび上がらせることに成功しています。

 「浦の苫屋の秋の夕暮」だけでも、寂び系の美としては十分に優れており、そちらの美に徹して表現を追求する選択肢もあるわけですが、幽玄を旨とする定家にとっては、そちらの選択肢は最初からありません。

 但し、この歌は、これもよく知られているように、『源氏物語』の明石巻を下敷きにした本歌取りの歌であり、そこに若干の弱さがあります。誤解のないように急いで付け加えますが、ここで「弱い」と言ったのは、作品の評価ではなく、ないものを「ない」と表現する技法上のお話です。作品としては第一級のものと思っています。

 なぜ、弱いのか。それは、この歌の背景(本歌)として、この歌全体を包む『源氏物語』の作品世界が「ある」からです。

 

よりラディカルな詩情  西行

 それでは、よりストレートに、ないものを「ない」と表現した作品にはどんなものがあるでしょう。例えば、

 津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり

 などはいかがでしょうか。言わずと知れた『新古今集』最大の歌人西行の作品です。

 実は、この歌もまた「心あらむ人に見せばや津の国の難波あたりの春のけしきを」という、能因法師の古歌を本歌とした本歌取りの作品ではあるのですが、美の捉え方が異質です。

 定家の作品では、本歌的な位置にある『源氏物語』で示された美は否定されていません。むしろ、その美的世界観を発展させ、定家の本領である幽玄の美へと昇華させています。

 ところが、西行の作品においては、本歌で描かれた春の景が幻想として作品の背後に存在しているわけではありません。その美は、文字通り「ない」ものとして消し去られています。

 西行の心眼はあくまでも、寂び寂びとした晩秋の風が吹き渡る枯蘆原そのものに注がれているようです。その新しい美は、流転する万有の悲しさを伴う圧倒的な存在感で西行を包み、読者である我々をも包みます。

 上述したような、いわば常識を超越した美の世界を現出させるのに、上の句の失われた「難波の春」が決定的な役割を果たしているわけです。

 

控えめで可憐な美  与謝蕪村

 西行のこの作品は、一つの孤峰であって、これと同等の作品を他に見出すことはなかなか難しいと思いますが、もっと優しい表現であれば、後世の連歌俳諧にも、その例を指摘することができます。

 特に解説はいらないでしょう。そこにないものを「ない」と表現することで生まれる、控えめでちょっと切ない可憐な小宇宙を味わってみてください。

 橋なくて日くれんとする春の水

 菜の花や鯨もよらず海くれぬ

 高麗舟のよらで過(すぎ)ゆく霞かな

 以上、三句、全て与謝蕪村の作。意図したつもりはありませんでしたが、春の句ばかりになったのも故なしとしません。

 また、昔から、そこに「凧」はあるのか、ないのか、の議論が続いている、同じく蕪村の、

 凧(いかのぼり)きのふの空の有り所

 も、今日は凧がない、と読めば、同様の趣向になりますね。

 

 それでは、今日はこの辺で擱筆させていただきます。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

yuugurefermata.hateblo.jp