夕暮れフェルマータ

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与謝蕪村の一句鑑賞 その六

我(わが)帰る路いく筋ぞ春の艸(くさ)

 上掲の一句は、当時、自身の性格的な問題もあって大坂(現在の大阪)を追われ、兵庫に流寓していた弟子の大魯を訪ねた際に開かれた句会で生まれたもの。たまたま引き当てた「春草」という題による即興です。

 この句、蕪村自身が書いた前書きにある通り、漢詩の詩的伝統が背景にありますが、そういった知識がなくても、十分に味わい深い佳品です。

 多少、松尾芭蕉の作品をご存知であれば、この一句から、

 此(この)道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮   芭蕉

 を思い出す方もあるでしょう。

 蕪村が芭蕉のこの句を大切にしていたことは、蕪村自身、蕉翁に呼応するように、

 門を出(いづ)れば我も行人秋のくれ

 と詠んでいることからも明らかです。

 芭蕉は、俳諧を志し、生涯をかけて打ち込んできたその思いを「この一筋につながる」と表現しました。しかし、蕪村はそういう言い方はしません。芭蕉はパイオニアであり、芭蕉にとっての先達は俳諧の分野にはおらず、西行や宗祇、雪舟や利休といった、俳諧以外の伝統的な芸術の中にありました。

 その点、蕪村のお手本は芭蕉その人でした。詩的資質が異なるため、とかく対比的に捉えられがちですが、蕪村自身の心持ちはどこまでも芭蕉への敬仰で貫かれていたのです。

 ですから、蕪村が「我帰る路いく筋ぞ」と詠んだ時、彼の脳裏に、芭蕉の「此道や」の一句や、芭蕉が書き残した「この一筋につながる」との文言が浮かんでいたことは想像に難くありません。

 その上で、彼は彼に固有の境涯を美しい幻想の景として詠み上げました。

 この句で、蕪村が帰ろうとしているのは、現実の住まいというよりも、例えば、

 遅き日のつもりて遠きむかし哉

 花茨故郷の路に似たるかな

 と詠んだ幼き日の追憶だったと思われます。

 但し、蕪村の出生地や幼少期に関する情報はほとんど残っていません。此は、蕪村自身がそれを語りたがらなかったからでしょう。そこには何かしら事情があったに違いありません。だからこそ、募る望郷の思いが、彼の詩情の源でした。

 つまり、蕪村は幻想の故郷へと伸びる路をいく筋も目の当たりにしつつも、それらの路が実際には彼を故郷まで(それが幻想の故郷であってすら)導いてくれるものではないことを哀切に自覚していたのです。

 唐突ですが、上掲句から連想する一編の詩があります。

 岸田衿子さんのこんな作品です。

  アランブラ宮の壁の

 アランブラ宮の壁の

 いりくんだつるくさのように

 わたしは迷うことが好きだ

 出口から入って入り口を探すことも      詩集『あかるい日の歌』より

 

 岸田さんの詩は、さすがに現代的で、理知的な面が勝っていますが、そこに湛えられている詩情は、蕪村の「我帰る」の一句と共通するものがあります。

 蕪村は決して帰り着くことのない帰還者でした。そのことへの切ない自覚と覚悟が、蕪村をして、多彩な、それでいて純度の高い詩的世界に遊ばせる原動力になったと思われます。

 彼の心にある故郷へと続く路のイメージは、彼の作品にも結晶しています。最後に、二句ほど、それらの作品を挙げて、擱筆致します。

 春風や堤長うして家遠し

 春の暮家路に遠き人ばかり

 

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