夕暮れフェルマータ

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松尾芭蕉『おくのほそ道』をめぐる雑感 / 『おくのほそ道』は第一級のファンタジーである!

 松尾芭蕉の著作といえば、何と言っても『おくのほそ道』でしょう。芭蕉が、愛弟子の河合曾良とともに「みちのく」を旅して認めた紀行文として有名です。しかし、これもよく知られていることですが、そこに記載された内容は必ずしも事実そのものではありません。それは、上述の曾良が残した「曾良旅日記」と比較しても明らかです。

 実は、『おくのほそ道』研究の少なからぬ部分が、曾良のこの日記との比較の上で、本書の虚構性をめぐる問題を検討することに費やされてきたということもできるのです。

 実際、我々が紀行文を読む時には、基本的に、事実に即して記述されたものであることを前提としています。多少の誇張や省略、あるいは筆者の事実誤認などによる誤りはあるにしても、です。例外的に、そうした無意識の前提を悪用して意図的に誤った情報を流すケースがあっても、それは紀行文に対する上述の前提の存在を裏から証明しているに過ぎません。

 ところが、『おくのほそ道』の記述には事実ではない内容が、文字通り溢れているのです。例えば、実際にはわずかな移動距離であったにも関わらず、道中に大変な苦労をしたように書いたり、旅の後半、長い道程の割に記事が少ない部分について、その理由を体調不良だったから、と書いたり、といったことがあります。

 中でもちょっと衝撃的なのは、本当は芭蕉が詠んだ句を、同行の曾良が詠んだように書いたらしいことです。

 それは、現在の栃木県北部に広がる「那須野」を旅していた時のこと。迷いやすい野の道中に、農夫の好意で馬を借りた芭蕉たち。ふと気づくと、後から駆けてくる子ども二人。見れば、ひとりは鄙には稀な美少女です。心惹かれて名を問うと、「かさね」と答えます。容姿に違わぬ雅な名前に感動して、曾良詠んだのが、

 かさねとは八重撫子の名成るべし

 …と、書かれているのですが、この句、学会では、実際は芭蕉の作である、というのが定説化しているとのこと。

 もう一つ、これは芭蕉一代の絶唱と言ってよい、

 荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)

 についても、芭蕉が当地(越後)を訪れた時期には、天の川が佐渡の上空に見えることはなかった、とか、この時期の日本海は比較的穏やかで「荒海」と言うには程遠い、とか、いろいろと詮索がなされています。

 本土と荒海で隔てられた佐渡島は、古来、流人の島として知られ、多くの人々の悲運の思いが染み込んだ土地です。そこに悠久の象徴とも言える天の河を配したところ、さすがとしか言いようがありませんが、これも厳密な意味では実景と言えないようです。

 このように見てくると、『おくのほそ道』を通常の意味での紀行文に分類すること自体に無理があると言わざるを得ません。

 芭蕉は、『おくのほそ道』の冒頭で、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」と書いています。芭蕉にとって、人生は旅のようなもの、逆に言えば、旅は人生の象徴だったと言えましょう。その旅について記した代表作がさまざまな虚構に彩られた作品だったとしたら、芭蕉にとっては、人生もまた虚構だったのかも知れません。

 急いで注記をするなら、ここで「虚構」と言っているのは決して批判ではありません。芭蕉は『おくのほそ道』の旅の後に書いた『幻住庵記』の中で、「つひに無能無才にしてこの一筋につながる」と書いています。俳諧の道は「夏炉冬扇」のものながら、芭蕉にとっては唯一の真実であったわけで、そこに「虚構」と「真実」の高度なアマルガムが現出しているということができます。

 芭蕉はまた、風雅を志した先人として、西行、宗祇、雪舟、利休の名を挙げていますが(『笈の小文』)、彼らのほとんどが世を捨てた隠者としての顔を持っていました。

 隠者の本質は、現世を無常と観じ、来世に望みをかけて世を捨て、隠れ住むことです。そして、この無常観も、当初の、常住なるものはないという変化の無常観から、徐々に、「一期は夢よ」(『閑吟集』)といった、人の一生など幻のようなものだとする虚仮的な無常観に変化していきました。

 戦国武将の織田信長が愛吟したと言われる「人間五十年、下天のうちを比ぶれば…」の一節で知られる謡曲「敦盛」はその典型です。

 そういう感覚を誰よりも深く身につけていた芭蕉ですから、『おくのほそ道』の旅が世間一般に言われる意味での事実と異なっていることなど、全く問題にならなかったのではないでしょうか。

 誤解を恐れずに言えば、芭蕉にとって、『おくのほそ道』は、典雅な構成美を誇る高度なファンタジー。しかも、自分の生涯をかけて追い求めた「この一筋」をも深く織り込んだ自賛の傑作だったと思われます。

 今回は、『おくのほそ道』について、いささかの雑感を記しました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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