夕暮れフェルマータ

 人生のマジックアワーに振り返る好きな本とか自然とか…。

加舎白雄の三句鑑賞

加舎白雄(かやしらお)をご存知ですか?

 江戸時代の俳人としては、これまで、与謝蕪村を中心に、言わずと知れた松尾芭蕉とその弟子である内藤丈草を取り上げてきましたが、もちろん他にも優れた俳人は少なくありません。中でも有名なのは小林一茶ですね。一般的な知名度から言えば、蕪村よりよく知られているかも知れません。

 一茶の作品は膨大で、詩的な洗練度には難があるかも知れませんが、誰にでも分かりやすい心情や身近な情景を巧みに切り取り、作品に結実させる力量には舌を捲くしかありません(一茶については、また別の機会に取り上げる予定です)。

 今回は、蕪村と一茶の間にあって、清新な作風で一時代を築いた加舎白雄の作品をいくつかご紹介しましょう。

 蕪村同様、白雄もまた、芭蕉を深く尊敬していました。自然への觀照が深く、また、貧しさを抱えて生きる庶民に温かい眼差しを注いでいる点では、先輩の蕪村と共通するものを感じます。但し、蕪村は現実を離れたイメージの世界に遊ぶことが多かったのに対し、白雄の方は、あくまで、今、ここにある世界の中から「詩」を見つけ出そうとしています。では、能書きはこのくらいにして、彼の作品を見ていきましょう。

 

 人恋し灯ともしごろをさくらちる

 春の夕暮れのそこはかとない人懐かしさをどこまでも柔らかく表現しています。蕪村に、「遅き日のつもりて遠きむかしかな」という秀句がありますが、感動の質に共通するものを感じます。但し、蕪村の句が過去に向かって遡行する「時間」について、抽象的に表現しているのに対し、白雄の一句はどこまでも眼前の景に留まり続けます。もちろん、優劣をつけるようなことではないのですが、この時期の俳諧(発句)を、事物をもって心情を語らせる抒情詩として捉えるなら、むしろ白雄の作品の方に軍配が上がるかも知れませんね。

 

 行秋の草にかくるる流かな(行く秋の草に隠るる流れかな)

 こちらは、一転して、秋の句です。これも、眼前の景をそのまま素直に詠んでいます。晩秋の季節感の捉え方が文字通り正鵠を射ているため、レトリックに頼ることなく、深い詩情を湛える作品になっています。

 

 木枯や市に業(たづき)の琴をきく

 琴と言えば、雅な嗜(たしな)みという印象がありますが、この句に詠まれた琴は、生業としての琴です。人に聞かせるほどの腕があるということは、かつてはそれなりに身分の高い者だったのでしょう。それが今は、木枯の中で楽を奏でて、物乞いをしている。生々流転の雛型と言いましょうか。作者の繊細な感受性は、こういうさり気ない場面にも、ピクリと反応して作品に結晶するのです。

 

 ここに白雄の作品として取り上げた三句は、当たり前のことですが、白雄自身が、発句に詠む価値があると思ったテーマです。誠に、しみじみと寂しく、だからこそ美しい詩境ですね。蕪村ほど、自在な空想の世界に遊ぶことがないので、余計にその寂しさの美が光ります。

 今回は、加舎白雄の発句をご紹介しました。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

yuugurefermata.hateblo.jp