夕暮れフェルマータ

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俳句の「季語」を考える / 由来と実例

俳句に季語を入れるのは何故?

 俳句には必ず季節を表す言葉(=季語)を入れるものだと、小学校の国語の授業で習った方は多いと思います。それは確かにその通りなのですが、そもそもこの約束事がどこに由来しているのか、まで教わった方はあまりいらっしゃらないかも知れません。

 もともと、和歌は伝統的に季節の言葉を盛り込むことが多かったのですが、それは、当時の人々にとって、和歌がコミュニケーションの手段であったことと深く関係しています。今でも、手紙を書くときには、時候の挨拶と言って、季節の言葉を添えますよね。それと似た感覚です。むしろ、和歌の伝統が現在まで引き継がれていると言う方が正確でしょうか。

 中世以降、和歌に代わって盛行したのが連歌です。一口に連歌と言っても、実際にはかなり複雑な変遷があるのですが、その間、徐々に連歌を作る上での細かいルール(=式目)が定められていきました。

 中でも、基本中の基本として決められたのが、連歌冒頭の句(=発句)には必ず、その連歌の会が開かれた季節の言葉を詠み込むというルールです。

 もうお分かりですね。元々、俳句は連歌の発句が独立して生まれたものなので、独立するに際しても、連歌時代にできた「季語を入れる」というルールをそのまま引き継いだというわけなのです。

 

ちょっと寄り道 / 無季俳句について

 ちなみに、無季俳句というジャンルもあって、五・七・五の定型は守りつつ、意識的に季語を排して作句する考え方もあります。よく知られた作品としては、

 しんしんと肺碧きまで海の旅   篠原鳳作

 戦争が廊下の奥に立つてゐた   渡辺白泉

 いつせいに柱の燃ゆる都かな   三橋敏雄

 などがありますが、どれも印象鮮明な秀句だと思います。

 

季語を生かす、季語の本義

 但し、俳句の主流は圧倒的に有季定型であり、滅多に俳句など作ることのない僕でも、分厚い歳時記(=季語集)を手元に置いているくらいです。

 しかし、約束事として季語を入れることと、その季語を作品の中で本当に生かせているかということは別問題です。さらに言えば、その季語の本義そのものをズバリと言い当てたような名句は、そう簡単に生まれるものではありません。

 そのような作品を生み出すには、優れた詩的センスはもちろんのこと、タイミングというか、ある種の恩寵が必要でしょう。また、早い者勝ちな面があることも否定できません。

 

「春の海」と「身に沁む」/ 与謝蕪村の作品から

 それではここで、季語の本義を言い当てたと考えられる句をいくつか、このブログでよく取り上げている与謝蕪村の作品からご紹介しておきましょう。(太字が季語です)。

 春の海ひねもすのたりのたりかな

 身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む

 「春の海…」の句は、蕪村の作品として最も有名なものでしょう。実際には、春の海だって、荒れる日もあれば、凪ぎ切っている日もあるはずです。しかし、本義はまさにこの句の通り。終日(=ひねもす)「のたりのたり」と寄せては返す波の姿に、作者である蕪村は春の海の真髄を見出しているのです。

 ちなみに「春の海」は季語ですが、「春の街」とか「春の犬」とかは季語になりません。「街」や「犬」には、春ならではの特徴がないからです。ところが「春の猫」なら「恋猫」の意で季語になります。季語の世界もなかなか奥が深いですね。

 一方、「身にしむや…」の句は、「身にしむ」という晩秋の冷え勝る感覚を表す季語に、亡くなった妻の櫛を思いがけず閨(=ねや。寝室のこと)で踏んだ時の寂しさ、侘しさを重ねて、見事な心象風景を描き出しています。

 ここで敢えて「心象風景」と言ったのは、この句が蕪村の空想の作品だからです。この一事からだけでも、蕪村が単なる写生の俳人でないことが分かりますね。 

 今回は、俳句(俳諧)における「季語」について考えてみました。最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

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