夕暮れフェルマータ

 人生のマジックアワーに振り返る好きな本とか自然とか…。

山や渓で出会った暮らしの「記憶」

僕のホームグラウンド、奥多摩・奥秩父・奥美濃

 山を歩いたり、渓を釣り上がったりしていると、思いがけないところでその土地に暮らした人々の生活の「記憶」に出会うことがあります。特に、僕の場合、東京に住んでいた頃は奥多摩や奥秩父岐阜県に移住してからは揖斐川源流域の山や渓をホームグラウンドとしてきた関係上、山歩きと言っても、結果的には、山村に暮らす人々の生活圏にお邪魔する形になっていた場合が多いこともあります。

 もちろん、ここで比喩的に「記憶」と言ったのは、現役の生活ではなく、過去の生活の痕跡を指しています。以前の記事でも触れましたが、こちらに越してきてからは、徳山ダム建設の進展を横目で見ながら、揖斐川源流の渓に通いつめていたこともあって、今はもうダム湖の底に沈んでしまった旧徳山村の各集落の在りし日の姿に思いを馳せることも度々でした。

 

具体的な例をいくつか…

 今回は、そんな「記憶」について、思いつくままに記してみます。取り上げる個々の事柄やエピソードはそれだけで十分に独立した記事になり得るものですが、取り敢えず軽く列挙する形に留めます。

①森林軌道跡

 特に奥秩父でよく見ました。見た、というより、それがそのまま登山道として利用されていることが多く、細い線路もところどころ残っていたりして、歩いていて楽しいものでした。軌道跡だけに勾配が緩く、歩きやすいことも楽しさを助長しますね。図書館などで調べると、森林軌道をテーマにした写真集なんかもあったりして、イメージが広がります。

焼畑

 焼畑式農業と聞くと、原始的なものと思われがちですが、上手に火入れをしながら、数年サイクルで植える作物を変えていくなど、平地の少ない山村での農業としては十分に合理的な農法でもありました。奥美濃地方では、ソリ、ソウリなどといい、今でもそこだけ微妙に植生が違っていたりします。地名に残っていることも多いですね。

③枝村跡

 揖斐川最上流にあった旧徳山村には、揖斐川に沿って幾つもの集落が点在していました。もちろん、行政区分としての徳山村が成立する以前は、それぞれの集落が「村」であり、それなりの独立性を保っていました。更に、それらの「村」の人々は多くの場合、夏の間だけ泊まり込みで耕作なり山仕事なりに精を出す、出作り小屋を作っていることが多かったのです。それがだんだんと通年そこで暮らすようになり、本村から分かれた枝村が形作られるようになりました。しかし、時代の趨勢で、それらの枝村は次第に数を減らして行き、徳山村が廃村となった頃にはほとんど姿を消してしまっていました。

 比較的よく知られているのは、徳山村の例ではありませんが、揖斐川の支流、坂内川の最源流にあった八草村です。八草村は下流にあった川上村の枝村だったのが、江戸時代の元禄年間に独立したものです。その後、大正時代に村民全員が離村して、集落としての歴史を閉じました。民俗学者でフィールドワークの天才とも言える宮本常一が『ふるさとの生活』という本の中で、この村のことを書いています。

ふるさとの生活 (講談社学術文庫)

ふるさとの生活 (講談社学術文庫)

 

 

④魚止め上流の渓流魚

 多くの渓には、魚止めの滝と呼ばれる滝があります。その名の通り、その滝が障壁となって、これより上流には魚が遡上することができないため、このように呼ばれているのですが、実際には魚止めの滝より上流にも魚が生息していることはよくあります。

 具体的な場所を明記することは差し控えますが、とある山中の一軒宿のすでに隠居されているお婆さんが、釣りの帰途、一休みさせていただいていた僕にこんなことを話してくれました。

「そこから上の沢の魚はおじいさん(そのお婆さんの夫君)が下で釣ったのを放して飼っていたのに、この頃はみんなが釣って持っていってしまう…」。

 僕はその釣行でテント泊りをし、魚も夕食としていただいた以外は全て流れに返していた上、釣師だと判断されるような持ち物はぶら下げていなかったので、お婆さんは僕を登山者と思って愚痴ったのだと思います。

 それにしても、沢に放流した魚(実際はイワナですが)を「飼っている」と言う発想に衝撃を受けました。それが彼女の正直な感覚なのでしょうし、彼女の夫君は若かりし頃、よく育ったイワナを改めて釣り上げては宿の食事として客に供したり、下流の集落の住人や仲買人に売っていたりしたのかも知れません。

 彼らにとって、沢は田畑、魚は米や野菜と同じ。文字通り、自分たちのモノなのでしょう。社会の成り立ちや歴史、人間と自然の関わり方など、いろいろと考えさせられた経験でした。

 ちなみに、揖斐川最上流の黒谷という渓の枝谷に落差十メートル近い堰堤があり、文字通り人工の魚止めの滝状態になっているのですが、ほとんど細流と化したこの堰堤の上流にもやっぱり魚はいたのです。

 帰途、黒谷が揖斐川に流れ込む付近にあった門入(かどにゅう)という集落跡で会った地元のお婆さんにその話をすると、「ああ、まだおったかい。ありゃあ、うちの息子が下で釣ったのを放してやったもんだが」との返事が…。まるでデジャヴ。幸いなことに、門入のお婆さんの口振りから苦情や文句といったニュアンスは感じられず、ただ「懐かしいなあ」という素直な思いだけが伝わってきたのではありますが。

 

終わりに

 けっこうな長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。また機会があれば、個々の事例について、改めて取り上げてみたいと思います。

 

yuugurefermata.hateblo.jp