夕暮れフェルマータ

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『万葉集』の一首鑑賞・その参

かなし妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも

 

 上掲歌は、『万葉集』巻十四に収められた東歌、全二百三十首の中で、唯一「挽歌*1」として分類されている作品です*2

 それではまず、今回取り上げた作品の歌意を確認しておきましょう。

「愛しい妻は何があったってどこにも行くもんかと高をくくって、(山菅の)背中合わせに寝てしまったことが、今となって悔やまれるなあ」。

 夫婦喧嘩でもして、ふて寝してしまった夜のことを思い出しているのでしょうか。あるいはちょっといい気になって、日頃から邪険に扱ってしまっていたのか。いずれにしても、慣れ親しんだ妻を唐突に喪った夫の心情を詠んで、これほど素直に共感できる歌も少ないのではないかと思います。自戒も込めて、私的な「あるあるネタ」に登録しておきたいくらいです(汗)。

 さて、本題に戻りましょう。「山菅の」は「そがい(=背向)」にかかる枕詞*3です。可憐なwild flowerである山菅*4に、亡き妻の面影を重ねているからでしょうか。下の句の頭に配されたこの枕詞には、作者(たとえ、この歌の発生が民謡的なものであったとしても)の亡き妻に対する真情が込められているように感じます。特に、この作品が、東国の鄙で歌い継がれてきたことに思いを致せばなおさらです。

 もう一つ、指摘しておきたいのが、結句に用いられた「悔しも*5」です。「悔し」は現代語の「悔しい」に連なる古語ですが、『広辞苑』等の辞書を引けば明らかなように、一義的には「悔やむ」意であり、現在、中心的に用いられている「相手に辱められたり、自分の無力を思い知らされたりして*6」感じる苛立ちは、あくまでそこから派生したものだと考えられます。

 したがって、この歌を現代語に訳せば、上述の歌意に示した通り「…悔やまれるなあ」ということで間違いはないのですが、実際にこの歌を読んだ我々は、その本義の背後に、作者の、誰にもぶつけようのない自分自身に対する「悔しさ」を感じて、身につまされるということになります。

 それはつまり、「悔し」という語そのものが、千三百年という時の流れに磨かれて、深みを増した結果です。

 どんな言語であれ、社会という空間的な広がりと歴史という時間的な積み重ねの中で成長していくのだ、という当たり前の事実に気付かされ、その厳粛さに、思いがけず胸を打たれた次第です。

 

yuugurefermata.hateblo.jp

 

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*1:「挽歌」とは死者を悼む歌を言い、「雑歌」「相聞歌」とともに『万葉集』を構成する三大部立の一つとされています。

*2:万葉集』巻十四3577

*3:枕詞は、特定の語にかかって、イメージを広げたり、語調を整えたりする働きを持った語で、そのほとんどが五音で構成されています。

*4:「山菅(やますげ)」はヤブランの古名とも。ここでは、その茂り乱れる葉のイメージから、「背中合わせ」を意味する「そがひ(=背向)」にかかっています。

*5:「も」は、詠嘆を表す終助詞

*6:広辞苑』第六版より。