夕暮れフェルマータ

 人生のマジックアワーに振り返る好きな本とか自然とか…。

与謝蕪村の一句鑑賞 その五

雪の暮鴫はもどつて居るやうな

  作者の宿る庵からほど近い沼沢地。折しも降り積もった雪にいや増す静寂の奥から、幽かに鳥の羽搏つ音が聞こえてきます。昼の間どこかに飛び去っていた鴫(しぎ)が塒(ねぐら)である水辺に帰ってきたらしい。

 耳を澄ませ、心を澄ませて、雪の降りしきる夕景に想いを馳せる。なんてシンプルで贅沢な時間なのでしょう。

 この一句、西行芭蕉に連なる伝統的な隠者の美学と、蕪村特有の小動物に対する優しい想いが渾然として、雪の夕暮れにふさわしい、現(うつつ)ならざる浄土の幻想が眼前に浮かび上がってくるようです。

 

  ところで、この一句から思い出す古歌があります。舒明天皇の作と言われる、

 夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝(いね)にけらしも

                          (『万葉集』巻八1511

 がそれです。

 鴫と鹿、冬と秋との違いはありますが、いずれの作品も、日の光の失われた夕暮れの彼方に、じっと耳を澄ませているところは共通しています。

 今はこうした時間を持つこと自体、思った以上に難しくなっています。日暮れともなれば、競い合うようにネオンが灯り、屋内にあっても、エアコン、扇風機、冷蔵庫など、常に何らかの家電が音を立てています。これではとてもじゃありませんが、夜の静寂に身を委ね、森や水辺の幽かな気配に耳を傾けることなんてできません。第一、今では森も水辺も遥か彼方に退いて、鴫も鹿も居やしない。

 もちろん、蕪村が生きた時代にあっても、風雅一筋に暮らすのは大変なことだったに違いありません。蕪村が知人に宛てた手紙の内容からも、経済面での苦労が偲ばれます。それでも、自然そのものは今より身近に感じられたことでしょう。特に夜の暗闇は決定的だったはずです。

 昼間は視覚による認知が中心だったでしょうが、夜は聴覚に頼らざるを得ません。そこにまた詩が生まれます。それではここで、もう一首。『万葉集』中の傑作を示して、擱筆したいと思います。

 山部赤人が吉野宮滝への行幸に従駕した際に作った長歌反歌です。

 ぬばたまの夜の深けゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く

                         (『万葉集』巻六 925