夕暮れフェルマータ

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宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の自己犠牲を考える

 『グスコーブドリの伝記』の場合

 自己犠牲の物語として直ちに思い出すのは、宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』です。この物語の背景には、特に東北地方において宿命的に繰り返されてきた凶作と飢饉の記憶が横たわっています。主人公のブドリは、冷害による飢饉の発生を食い止めるため、自らが犠牲となって人工的に火山を噴火させることに成功します。ブドリは自分の命と引き換えに、多くの人々が飢え死にすることを防いだのです。

 

銀河鉄道の夜』の場合

 一方、賢治の代表作とも言える『銀河鉄道の夜』では、同じ自己犠牲を描くにしてもだいぶ設定が異なります。『グスコーブドリの伝記』に描き出された自己犠牲は、衆人の感謝の念と不可分に結びついています。ところが、『銀河鉄道の夜』における自己犠牲には、そのような英雄的行為のニュアンスがありません。自らの命を犠牲にして川で溺れかけた少年を助けるのは、主人公の親友ですし、助けられた少年は、心ない言葉で主人公をからかっていた悪童でした。

 賢治は悪童のその後について特に触れてはいません。従って、この事件の後、彼が改心乃至回心することは想定されていません。しばらくはおとなしくもなるでしょうが、ほとぼりが冷めれば元の木阿弥で、主人公あるいは主人公に準じた気の毒な立場の人間へのからかい、いじめを再開するのはほぼ間違いありません。

 誤解を恐れずに言いますが、この悪童とこの悪童を命に代えて救った主人公の親友と、どちらが生き残った方が世のため人のためになるかは明白でしょう。

 

ブドリとカンパネルラの違い

 ここで、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。ブドリとカンパネルラ(これが『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニの親友の名前です)、この二人の行為は、どちらがより純粋な自己犠牲と言えるでしょうか。前述のように、ブドリの自己犠牲は英雄的であり、彼の死は衆人によって永く讃えられるものと思われます。一方、カンパネルラの自己犠牲は、助けられた当事者すらからもじき忘れられてしまうであろう、「無償の行為」です。

 

宮澤賢治の祈り

 僕はそこに、賢治の深い人間理解(=自己洞察)を見ます。賢治がブドリのような生き方に憧れていたのは間違いありません。しかし、その一方で「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」*1という思いが、常に彼の胸を洗っていたものと思われます。

 「雨ニモマケズ」に描き出された人物像はかなりデフォルメされてはいるものの、ジョバンニの将来を予言しています。恐らくジョバンニが簡単に死を選ぶことはないでしょう。親友カンパネルラの「自己犠牲」による死に対して謙虚に瞠目しながらも、自らは生き続けると思います。但し、その生き方は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」*2回るような愚直さに縁取られていることでしょう。それこそ、彼が親友カンパネルラと誓った「ほんとうのさいわい」を求める人生の旅だからです。

 

宮澤賢治作品の光と影

 『銀河鉄道の夜』は二重の逆説で組み立てられた傑作です。一つは報われないからこそ自己犠牲なのだ、という逆説、もう一つは自己犠牲をテーマにしながら主人公が生き残る、という逆説です。

 ここで急いで付け加えれば、『銀河鉄道の夜』は『グスコーブドリの日記』と併せて読んでこそ意味がある作品だと思います。『グスコーブドリの日記』が表(=光)なら、『銀河鉄道の夜』は裏(=影)。決して、その逆ではありません。裏乃至影の作品を自らの代表作にまで高めたところに、賢治の比較を絶した凄みを感じます。

 

*1:詩「雨ニモマケズ」より。

*2:注1に同じ。