夕暮れフェルマータ

 人生のマジックアワーに振り返る好きな本とか自然とか…。

関ヶ原の戦い当時の関ヶ原の様子は?

当時の関ヶ原は、宿場町 + 農村だった。

 現在、公開中の映画「関ヶ原」で描かれている合戦の場面を見ると、だだっ広い原野で戦闘が行われたような印象を持ちますが、実際はどうだったのでしょうか。

 実は、関ヶ原の戦いがあった慶長五年(西暦1600年)の関ヶ原は、すでに、東山道(後の中山道)・伊勢街道・北国脇往還が合わさる宿場町を形成していました。

 街道沿いの家々は、間口が狭く、奥に長い間取りだったようですし、周囲には田畑が広がっていたことも分かっています(慶長年間に近い時期の検地帳等から推測)。

 現存する「関ヶ原合戦図屏風」を見ても、集落や田畑は描かれていないようなので、野戦が原野で行われるというイメージのルーツはかなり古いものと言わざるを得ません。

 もちろん、屏風絵を描く際に、不要な情報としてカットされたのでしょうが、一旦、そのように描かれてしまうと、それが既成事実となって、代々の日本人の脳裏に刻まれ続けることになりました。

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関ヶ原古戦場決戦地碑。石田三成が布陣した笹尾山のすぐ近くにあります。


 

地元の住民たちの動きは?

 前回の記事でも触れましたが、西軍は、松尾山城を整備したり、不破関近くに空堀等を伴う砦を築いたりして、東軍を迎え討つ準備をしていました。

 当然、地元の住民たちがその作業に駆り出されたことでしょう。関ヶ原の戦いが行われたのは旧暦の九月十五日。新暦では10月21日に当たります。ちょうど稲刈りの時期になりますが、実際はどうだったのでしょうか。

 実は、関ヶ原の戦いが終わった後、役人から、山中に逃げ込んだ住民たちに対し、早く山を降りて麦作するように、と通達した文書が残されています。

 関ヶ原の住民たちは戦乱を避けて、関ヶ原北方の山中に隠れていたようです。関ヶ原北方の山の先には山間の集落があり、岩手峠等を越えて人の行き来も見られました。

 実際、敗走した小西行長宇喜多秀家はこの山中に逃げ込んでいますし、お隣の旧伊吹町(現在は米原市)の住民たちも、この山域に避難していたことが『伊吹町史』に書かれています(「踊り場」と呼ばれる高台から、合戦の様子を望見していた、との話も伝わっています)。

 なお、「稲刈り」についてですが、上述した通達に「麦作をするように」とあるところを見ると、既に収穫は済んでいたものと思われます。

 

改めて、合戦の状況をシミュレートすると…

 石田三成が陣を敷いた笹尾山からは、関ヶ原古戦場を一望の下に眺められます。当時の笹尾山は、関ヶ原の住民たちの里山でした。植林帯が広がる現代以上に、手入れの行き届いた農村風景が広がっていたのではないでしょうか。

 そんな狭いエリアに、何万もの兵どもが雪崩れ込んだ状況を想像すると、ちょっと気が遠くなります。恐らく、元の落ち着いた風景を取り戻すまで、長い月日を要したに違いありません。

 僕自身、この古戦場を歩きながら、自分が足軽として駆り出されていたら…と想像したこともあります。前線に押し出されたら、もう逃げられません。前方に待ち構える無数の敵兵、背後には何万人もの「味方」の壁があります。卑怯な真似をしたら、すぐバレてしまいます。誰かに討ち取られるまで、進み続けなければいけません。

 意気地なしと思われようと、素直に「戦争は嫌だな」と思います。

 

 それでは、今日はこの辺で擱筆させていただきます。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

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関ヶ原の戦いの陣跡に残る「遺構」

関ヶ原古戦場に点在する陣跡碑

  慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)に行われた関ヶ原の戦いの主戦場は、現在の関ケ原町一帯です。

 朝から立ち込めていた霧がようやく晴れかけた午前八時、鶴翼の陣で待ち受ける西軍に対し、東軍が攻め込む形で、合戦の火蓋が切って落とされました。

 主だった武将が布陣した地点は概ね明らかになっていて、該当する地点には、明治三十九年建立の「陣跡碑」を見ることができます(但し、細川忠興陣跡碑は、2013年の建立です)。

 なお、陣跡碑の中には、設置後、圃場整備等の事情で移動を止む無くされたものもあるようです。例えば、現在、字福井にある松平忠吉井伊直政陣跡碑には「字茨原」と彫り込まれていますが、これは工場誘致のため移設されたことによります。

 また、昭和六年に国の史跡に定められた「開戦地」「決戦地」「家康最初陣地」「石田三成陣地」「岡山烽火場」「徳川家康最後陣地」「東首塚」「西首塚」「大谷吉隆(吉継)墓」「大谷吉隆(吉継)陣跡」には、国史跡指定碑が建立されています。

 

関ヶ原の戦いに縁ある遺構は?

 しかし、城跡という紛うこと無き遺構が残る攻城戦(籠城戦)とは異なり、野戦の古戦場では、大体の布陣地点は推測できても、実際の遺構はほとんど残されていないのが現実です。

 関ヶ原の戦いにおいても、その原則は変わりません。石田三成が布陣した笹尾山には、当時の状況を再現する「馬防柵」が設けられていますが、当時の遺構がどの程度残っているかはあまりはっきりしていないようです。

 

その1 松尾山城

 そんな中で、はっきり遺構として観察できるのが、小早川秀秋が布陣した松尾山です。松尾山は関ヶ原の戦いの主戦場となった関ヶ原の盆地の南にある小山ですが、その山頂一帯は、戦国時代のある時期、「境目の城」として機能していました。

 松尾山の山頂には、上述した明治三十九年建立の小早川秀秋陣跡碑がすっくと建っていますが、山頂の周囲は土塁に囲まれ、南側には敵の侵入を防ぐための枡形虎口も見ることができます。

 実は、松尾山城はさらに複雑な構造を持っていることが分かっていて、縄張り図を掲載したガイドブックも出版されています。

 

岐阜の山城ベスト50を歩く

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 ただ、松尾山城は、関ヶ原の戦いのために築かれた砦ではありません。以前からあった山城を整備して活用したというのが実際のところです。

 

その2 毛利秀元陣跡

 それでは、関ヶ原の戦いのために急遽築いた砦の遺構は残されているのでしょうか。

 一つは、関ヶ原町のお隣、垂井町にある南宮山の毛利秀元陣跡があります。かなり分かりにくい状態になっていますが、土塁や堅堀、土橋、虎口などの遺構を観察することができます。しかし、秀元は実際の戦闘には参加せず、もちろん、この陣地が戦いの場になることもありませんでした。

 

その3 そして本命 大谷吉継陣跡の堀跡

 ところが、灯台下暗し灯台下暗し、と言いましょうか。実は、関ヶ原の戦いの中でも最も激しい戦闘が行われた場所に、遺構が残されているのです。

 上掲の「大谷吉隆(吉継)陣跡碑」のすぐ側。これも既述の「大谷吉隆(吉継)墓」から南進する山道を「大谷吉隆(吉継)陣跡碑」まで辿ったところで、左右に幅1メートルほどの溝が伸びています。ちょっと見ると、踏み固められた杣道のようですが、これが大谷吉継が築かせた堀跡です。もちろん、当時はもっと深く掘られていたのでしょうが、四百年の年月が、穏やかな小道のような見た目に変えてしまいました。

 大谷吉継と言えば、関ヶ原の戦いに縁ある武将の中でもトップクラスの人気を誇る義将です。今は静かな樹林に囲まれたこの地に立って、当時の吉継の思いに心を凝らして見るのも意味のあることかも知れません。

 

 なお、ここからは、寝返りによって西軍の敗戦を決定づけた小早川秀秋の布陣した松尾山がすぐ間近に眺められます。 当時は山頂一帯に犇めく一万五千の小早川勢の動向が手に取るように察知できたことでしょう。

 吉継らが奮戦しているにも関わらず、静観するばかりの小早川。挙句にこちらに向かって攻め込んでくることを知った時の吉継の心情は…?

 想定内だったとは言え、ショックは大きかったに違いありません。しかも、裏切りは連鎖し、それまで動かなかった脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の四隊までもが西軍を裏切り、大谷隊に攻め込んだため、さすがの大谷隊も支え切れずに壊滅。ここに西軍は一挙に敗走することになりました…。

 

 それでは、今日はこの辺で擱筆させていただきます。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

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関ヶ原の戦い 石田三成の敗走路を推理する

関ヶ原の戦いの舞台は…

 関ヶ原の戦いと言えば、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)との間で争われた天下分け目の合戦として知られています。

 大詰めの舞台となったのは、現在の岐阜県関ケ原町。もちろん、それまでにも各地でさまざまな戦があって、広義の「関ヶ原の戦い」は、それら全部を含む戦乱とも考えられますが、何と言っても、当地で最終的に雌雄を決したことは間違いありません。

 僕は、関ケ原町からほど近い大垣市に住んでいて、ある時期、集中的に関ケ原町及びその周辺の戦跡を訪ね歩いたことがありますので、その辺りのことを何回かに分けて綴ってみたいと思います。

 関ヶ原の戦いを巡っては、それこそ数知れぬ逸話が言い伝えられていて、中には真偽のほどが不確かなものもありますが、この合戦に参加した各武将の立場や背景、人間関係等への理解がある程度深まってくると、ことの真偽とは別に、不思議と心揺さぶられるエピソードが少なくありません。

 個人的には、大谷吉継・平塚為広・戸田勝成の奮戦や、宇喜多秀家八丈島流罪後のエピソード、小西行長キリシタン大名らしい最期などが特に心に残ります。

 

関ヶ原の戦いの最終局面

 しかし、何といっても気になるのは、石田三成の敗走した経路です。三成は関ヶ原における敗戦の六日後、近江伊香郡古橋村に潜んでいるところを捕縛されます。しかし、厳しい追っ手の目を逃れ、どうやって古橋村までたどり着いたのかは謎のままです。

 更に言うなら、この時点の三成にはまだ、大坂城に戻って態勢を立て直す可能性が残されていました。歴史に「もしも」はありませんが、彼はどんなルートで大坂城に向かおうとしていたのでしょうか。こちらの謎にもつい想像を逞しくしてしまいます。

 ともかく、関ヶ原の戦いの終盤の状況から見ていきましょう。松尾山に布陣していた小早川秀秋の寝返りにより、大谷隊が壊滅、西軍最大の兵力を誇った宇喜多隊、宇喜多隊に隣していた小西隊が相次いで壊滅し、宇喜多秀家小西行長関ヶ原北方の山中に敗走します。

 笹尾山に布陣していた石田隊も、東軍の猛攻を支え切れず壊滅し、三成もまた、笹尾山の背後に連なる伊吹山の前山に逃れたと考えられます。

 なお、三成が街道沿いに敗走した可能性は低いでしょう。現実に、秀家や行長も笹尾山背後の山中に逃げ込んでいますし、街道沿いの村々には、三成捕縛の功を狙う東軍の追っ手が溢れていました。実際、容赦ない探索の手が伸びたことが、地元の伝承として残されています。

 

石田三成の敗走路は修験者の道か?

 実は、関ヶ原の西隣の伊吹山南麓は、すでに石田三成(石田氏)の領地でした。そして、その山中には、鎖のように山岳寺院が点在していました。当然、そこには山伏たちの修行の道が縦横につけられていました。

 また、これらの山岳寺院は、戦国時代、京極氏の山城として機能していた時期もありました。戦略的な意味での間道も整っていたことは確実です。三成が地の利を生かして知る人ぞ知るこれらのルートを利用した可能性は極めて高いでしょう。

 恐らく、三成はこの間道を辿って伊吹山の西麓まで行き、平野部には一切出ることなく、かつて浅井長政の居城(小谷城)があった小谷山乃至その北方の山田山まで達した後、そこから北へ伸びる尾根道を伝って古橋村へと逃げのびたものと思われます。

 実は、古橋村周辺もまた山岳信仰が盛んな地であり、伊吹山同様、修行の道が山中に張り巡らされていました。

 これらの山岳寺院と三成の関係は彼の幼少期にまで遡ります。三成の父、正継は、幼い三成の学びの場として、こうした寺院を選びました。具体的にどの寺院であったか、については大きく二説に分かれます。

 一つは、観音寺説。観音寺は石田氏の本拠地(現在の石田町)から山一つ越えただけの近場に位置しています。しかも、この観音寺は伊吹山南麓の山岳寺院が移ってきた寺なのです。

 もう一つは、法華寺説。法華寺は、何と三成が最終的に隠れ処として選んだ古橋村にあった山岳寺院です。

 どちらの説を採ったとしても、三成と山岳寺院との密接な関係を推し量る状況証拠としては十分でしょう。

 

石田三成、幻の大坂ルートは?

 古橋村は琵琶湖北辺。しかし、琵琶湖東岸にある石田氏の居城、佐和山城はすでに東軍の手に落ちています。したがって、琵琶湖東岸のルートは現実的ではありません。残るは湖西の山中か、あるいは夜の闇をついて舟で琵琶湖を突っ切るか、です。

 古橋村からは一投足で琵琶湖に着きます。琵琶湖北岸は入り組んだ湖岸が続き、現在でも、まるで隠れているかのような湊がたくさんあります。

 手引きする人物さえいれば、湖上ルートが最も現実的かも知れません。伝承もいくつかあるようです。更に調べを進めてみたいところです。

 

【補記】今回の記事は別名義にて他所で発表した内容を全面的に書き直したものです。

 

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戸口から青水無月の…  小林一茶「青」の三句

小林一茶の新しさ

 小林一茶は、宝暦十三年(1763年)の生まれ。享年六十五歳。彼の没後半世紀を経ずして、日本は明治時代を迎えます。

 一茶は俳聖松尾芭蕉やその後の与謝蕪村と比較して、ややもすると格下の評価に甘んじている嫌いがありますが、丁寧に読み返すと、その作品の至るところに、感覚の冴えや若々しい感受性の発露を見出すことができます。

 今回は、二万句を超える彼の発句の中から、「青」の語を用いた作品を三句ほど取り上げてご紹介したいと思います。

 「青」は、古来、わが国において、青・緑・灰色等、かなり広い範囲の色合いを指していることが知られています。「青」の語を用いた発句と言うと、与謝蕪村の、

 夕風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ

 が、すぐ思い出されますが、実際のアオサギの羽色は、青というより、青灰色で、カワセミオオルリのような鮮やかな青とはかけ離れています。

 

一茶の「青」は、青空と青葉の青

 その点、一茶の句に用いられる「青」は「青春」をイメージさせるような生き生きとした「青」です。取り上げた三句はいずれも晩年に近い時期の作ですが、それだけに、永遠の若々しさのようなものを感じます。

 以下の三句。それぞれに、印象深い「青」を発見して、作品に定着させています。

 

 りんりんと凧上がりけり青田原

 

 戸口から青水無月の月夜かな

 

 青空に指で字をかく秋の暮

 

 最後の一句など、例えば、明治時代、若くして逝った石川啄木の、

 

 東海の小島の磯の白砂に

 われ泣きぬれて

 蟹とたはむる

 

 函館の青柳町(あをやぎちやう)こそかなしけれ

  友の恋歌

  矢ぐるまの花

 

 等の短歌作品に通じるセンチメントを感じます。

 但し、一茶の方は、俳諧らしくカラッとしていて、それがいっそう気持ち良い読後感をもたらしているようです(啄木の作品を低く見ているわけではありません。和歌と俳諧それぞれが持つ詩情の違いを言っています)。

 こうして見ていくと、一茶の持っていた先見性に改めて驚かされます。蕪村とはまた違った意味で、一茶の俳諧に胚胎している俳句の革新性について、更に愚考を深めたい欲求に駆られています。

 

 それでは、今日はこの辺で擱筆させていただきます。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

「うつくし」の語義の変遷 及び「美しき」歌の系譜

「うつくし」の語義の変遷

 「うつくし」という形容詞には、元々、自分より弱いものを「慈しむ」というニュアンスがありました。『万葉集』で「…妻子見ればめぐし愛(うつく)し…」(巻五800)のように用いられているのが、その例だと言えましょう。

 その後、平安時代になると、「慈しむ」という心情的なニュアンスから、「慈しむ」べき対象の「可愛らしさ」に重心が移り、文字通り、「可愛い」という意味で用いられるようになります。

 和歌ではありませんが、清少納言の『枕草子』第百五十一段「うつくしきもの」は、幼児を中心とする子どもの所作や、雛人形の調度、雛鳥の様子など、現代の感覚では「可愛いらしい」ものに分類される内容が列挙されています。

 実際、この百五十一段については、「うつくしきもの」を「可愛らしいもの」と現代語訳することが通例となっています。

 その後、「うつくし」は現代語の「美しい」と重なるような用い方が主流になっていきます。江戸時代の俳諧における用例を調べると、そのことがよくわかります。

 

「うつくし」を用いた俳句、和歌(短歌)

 前段において、「慈しむ」心情が中心となっていた古代の用例を『万葉集』から、更に、「可愛らしい」意を表すようになった中古の用例を『枕草子』からご紹介しました。

 次に、江戸時代の発句の例をいくつか見ておきましょう。

 うつくしき日和になりぬ雪のうへ         炭太祇

 腰ぬけの妻うつくしき巨燵(こたつ)かな     与謝蕪村

 うつくしや年暮れきりし夜の空          小林一茶

 これらの発句で用いられた「うつくし」は、基本的に現代語でいう「美しい」と同義であると言って良いでしょう。

 但し、特に和漢の古典への造詣が深く、平安時代をイメージさせる王朝趣味の佳句を多く残した蕪村の一句に、腰を病んだ妻(自分より弱いもの)への「慈しみ」の情が滲んでいることを見逃してはいけません。

 

 最後に、明治時代の雅な短歌をご紹介して、擱筆致します。優に千年を超える和歌の伝統をしっかりと受け止めた「美しき」歌の代表です。

 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき   与謝野晶子

 

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

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「有明や浅間の霧が…」 小林一茶の代表句について考える

小林一茶の代表句と言えば…

 一茶の作品は親しみやすく、特に俳句に興味がない方でも、きっと何句かは諳んじることができることと思います。

 例を挙げれば、

 痩蛙まけるな一茶是(これ)に有(あり)

 雀の子そこのけそこのけお馬が通る

 やれ打つな蠅が手を摺り足を摺る

 等々。

 ちなみに、三句目の「やれ打つな」は「やれ打つな蠅が手を摺る足を摺る」の形で人口に膾炙していますが、上掲が正しいようです。確かにこの方が「やれ打つな」という蠅の懇願(の発言)と「蠅が手を摺り足を摺る」という蠅の所作の描写の文体が明確に分かれて、発句としての落ち着きが生まれます。

 

小林一茶の本当の代表句は…

 一茶本人はどう考えていたのか。彼が自ら選句した『小林一茶発句集』の「序」に、こうあります。

「翁に古池在て後、古池の句なし、一茶に松陰の句あつて後まつかげの句なし」

 ここで言う「翁」はもちろん、芭蕉翁(松尾芭蕉)のこと。そして「古池の句」は、当時から超有名だった芭蕉の名句「古池や蛙飛び込む水の音」を指しています。

 この一文を見るかぎり、一茶自身は自らの代表句を「松陰の句」、すなわち、

 松陰に寝て喰ふ六十余州哉

 だと考えていたことは明らかです。

 この一句は、徳川幕府平家)のおで日本全体が安泰に暮らせていることを詠んだもので、現代の我々からすると、これが二万句を優に超える一茶作品のNo.1なのか、と拍子抜けする感じがします。

 実際、よほどの一茶フリークでないかぎり、この句を識っている方は余りおられないのではないでしょうか。

 但し、この句は一茶の三回忌に建立された、彼の初めての句碑に選ばれています。遺された弟子たちは、生前に師匠が書き残した上掲の一文を重んじて、これを撰したに違いありません。

 

現代の俳句観から見た一茶の代表句は…

 小林一茶の俳句作品及び俳句という文芸について、ある程度識っている人たちに投票してもらった場合、最も多くの票を獲得すると思われるのは次の一句です。

 有明や浅間の霧が膳を這ふ

 この句はその前書に軽井沢とあり、一茶が故郷である北信濃の柏原と江戸とを往還する間に詠んだ一句だと考えられます。

 一般的な解釈は、こうです。

軽井沢の旅宿。早立ち故、早朝に朝食の膳に向かう私。折しも、窓外には白じろとした有明の月。そして、膝下には、浅間山が吐き出したかのような朝霧が這うように流れてゆく…」

 確かに、自然の雄大さ、繊細さ、旅宿の侘しさ、センチメンタルな旅情などが渾然とした詩情溢れる秀作と言えるでしょう。

 

有明」は、月のこと? それとも行灯(あんどん)?

 ところが、この一句に用いられた「有明」については、別の解釈が存在しているのです。普通は「有明」と言えば、それだけで「有明の月」を指しますし、他の一茶作品でもそのように用いられた例が見られます。

 しかし、当時、彼が記した日記を仔細に読むと、少なくとも軽井沢に宿泊した当日、有明の月はかかっていなかったようなのです。当時は太陰暦ですから、月の満ち欠けと日付が正確に連動しているわけで、これはかなりの説得力があります。

 仮にそれが正しいとして、後の推理は二説に分かれます。すなわち「有明(の月)」創作説と、「有明」=「有明行灯(ありあけあんどん)」説です。

 創作説もあながち否定できません。松尾芭蕉が『奥の細道』で詠んだ「荒海や佐渡に横たふ天の河」が実景ではなく、完全な創作であったことは有名な話ですし、一茶がそんな芭蕉翁を敬仰していたことも紛れない事実です。

 一方、「有明行灯」説も面白いです。有明行灯というのは、一晩中小さな灯を絶やすことなく点し続ける行灯のことだそうで、だとすると、まだ明けもやらぬ侘びしい旅宿の一室で、ひっそりと朝食を取る旅人の心情を演出するにあたっての、申し分ない小道具と言えそうです。

 この説の難点は、月を指す「有明」に比べると、類例が極めて少ないことと、特に説明がない場合、ほとんどの鑑賞者が「有明の月」をイメージすることは間違いないことです。

 また、有明行灯だとしても句の味わいは相当のものでしょうが、やはり、窓外の大きな景と眼前の佗しい朝食を対比させた句柄には及ばない、という問題もあります。

 皆さんはどちらの説を取られますか?

 

 ここから先は蛇足です。

 僕は、ふとこんなことを考えました。

 一茶の日記に創作性はないと思われるので、軽井沢に宿泊した翌朝に有明の月がかかっていることはなかった。その代わり、立ち込めた朝霧の彼方に、さも有明の月のような朝日がぼんやりと浮かんでいたのです。一茶は、その白じろと熱を失った朝日を有明の月に置き換えて、この一句を詠んだのだ、と。

 実際、一茶には「霞む日」という表現を使った作品が複数存在しています。季節は違えども、雪空の彼方に霞んで見える太陽は、一茶の美意識を形作る原型の一つだったと思われます…。

 

 結構な長文になってしまいました。今日はこの辺で擱筆致します。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

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バードウォッチング 晩夏の候の密かな楽しみ

 八月下旬って、どちらかと言えば、オフシーズン?

 野鳥はもちろん四季折々に見られるのですが、やっぱりポイントとなるシーズンというのはあって、ほとんどのカモ類は、囀りの美しいオオルリキビタキクロツグミなどは、です。

 留鳥カワセミなどは、文字通り、一年を通して見ることができますが、川辺に夏草が生い茂るこの時期は、とても観察の好機とは言えません。

 初夏、競い合うように囀っていた小禽たちも、恋の鞘当てが終わった今では、めっきりおとなしくなってしまいます。

 ツバメはまだ帰りませんが、さすがに見慣れてしまいましたし…。

 やっぱり、ジョウビタキツグミ、カモ類が飛来する十月以降まではバードウォッチングのオフシーズンなのでしょうか。

 

この時期だからこそ、バードウォッチングの地味な楽しみ方

 実はそうでもないのです。この時期ならではのマニアックな楽しみ方があるんです。3つほどご紹介しておきましょう。

その1 「今年生まれ」の幼鳥を見つけよう! 

 留鳥夏鳥にとっては、子育てが一段落するのがこの時期。手塩にかけた雛鳥たちも無事巣立っていきました。もう「雛」ではありません。容姿だけは一人前(但し、幼鳥はまだ羽色等が安定しないことが多い)。しかし、挙動はまだまだぎこちない。近づいても警戒心が薄いですし、やっぱり確かに童顔です。

 人家の近くであれば、スズメやツバメ、カラスなど。山間まで足を伸ばせば、オオルリキビタキ、カラ類など。今年生まれの初々しい「子鳥」たちを見ていると、自然と頬が緩んできます。

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今年生まれのオオルリ。可愛いですね。写真はCC0の画像をお借りしています。

 

その2 夏鳥の地鳴きを聴いておこう! 

 上に挙げた、オオルリキビタキクロツグミなどの夏鳥は、極めて美しい囀りで、我々をも楽しませてくれますが、あまりにそのインパクトが強いため、普段、彼らがどんな声で鳴いているのか、分からないままになってはいませんか。

 夏鳥たちはもうすぐ南方へと旅立ちますが、この時期は、彼らの地鳴きを聴き取るチャンスでもあります。と言うより、今しか聴けません(冬季に東南アジア等に出かける予定のある方は別)。

 茂りに茂った夏木立の奥から、彼らの地味な地鳴きを聴き取るのも、この時期のバードウォッチングの隠れた楽しみの一つだと言えましょう。

 

その3 高原の夏鳥の中継地を探せ!

 高山乃至高原で避暑を楽しむ小鳥たち。彼らに会うためには、こちらが避暑地に出向かなければいけません。でも、そんなお金も時間もない、というあなた(って、僕のことですけど)、諦めるのはまだ早い。

 夏鳥たちはもうすぐ南方に旅立ちます。彼らは個人旅行を好みません。ツアーを組んで海を渡ります。その集合場所は…?

 意外と、あなたのお住いの近くかも知れません。

 実際、僕の住んでいる岐阜県西部の半農村地帯では、毎年、春と秋にはノビタキの小さな群れが数日を過ごしていきます。オスの多くも、例のくっきりした黒い頭をしておらず、一見するとノビタキっぽくないのですが、メスの容姿を知っていれば、間違いなくノビタキだと確信できます。こうした渡りの途中での出会い(夏鳥)としては、コサメビタキなども見かけたことがあります。

 普段は山地に棲息している夏鳥たちが、市街地の公園などにちょっと立ち寄るのも、そう遠くない時期になってきました。

 正直、まだちょっと早いのですが、冬鳥が飛来する前に要チェックであることは間違いありません。

 

 以上、バードウォッチングが停滞しがちなこの時期の、僕なりの乗り切り方を書いてみました。それでは、今日はこの辺で。

 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

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